
「こんにちわ」
「○○さんこんにちわ。どうぞおかけください」
先生のやわらかな顔が今日も出迎えてくれる。
「どうですか調子は」
いつも通りのお決まりのセリフとともに
先生との会話が始まる。
僕はその言葉を投げかけられるまで
先生の背後にある大きな窓ガラスの向こうの景色を眺めている。
「そうですね 最近は・・・」
「ギンギラギン」

僕は19歳の頃から約2年半ほど
歯科大学病院で歯科矯正をしていた。
それは歯並びが悪いからと審美的な意味でやっていたのではなく
噛み合わせが悪かったという理由で。
しかも矯正したいと自ら名乗り出たわけではなく
以前から喋る活舌が非常に悪くて
しょちゅう相手から「え?なに」と聞き返されて
いい加減嫌気がさしていたので意を決して街の歯医者さんで診てもらう事にしたのだ。
歯医者といっても特殊な分野も扱っている歯医者だ。
結果「開咬」という症状が下された。
わかりやすくいえば前歯がうまく下の歯に当たっていないという状態。
確かにラーメンの麺をうまく噛み千切れないという自覚症状はあった。
「矯正したほうがいいですね」
「矯正ですか!?」
先生の言葉に有罪判決を受けたようなショックを覚えた。
矯正ってあの笑うとギンギラギンの金属が見えるアレだよなぁ、
小学校のクラスに何人かやってる子はいたし中学にもいた
ああ矯正やってんだ。
ぐらいで端から見ていたが
まさかそれを自分がやるのか!?
あのギンギラギンを?
19歳の歳で?
男の俺が?
嫌だ嫌だ
考えられない、
しかも費用もけっこうするだろ?
「100万円ぐらいですかねぇ」
無表情に歯医者さまはお答えになられた。
100まん・・
一巻きの札束がばすっ!
と子気味のいい音をたてて台の上に置かれた光景が目に浮かぶ。
そんな大金持ってねーよ・・。
「まあやるんだったらウチでわ行えないんで私の教え子がいる歯科大学病院の方紹介しますよ」
「はあ、、。」
意を決して飛び込んだ歯医者で治してもらうどころか
逆に精神的ダメージを負って出てくるとは思ってもみなかった。
なんとか歯科矯正以外で治せないものかと他の歯医者さんでも診てもらったが
診断結果は同じく矯正を薦められる。
矯正をするしか良くなる方法はないようだった。
渋りに渋ってなんとか気持ちを固め
歯科大学病院の門を叩いた。
「果てに行き着いた場所」

口に付けた装置が外れるまで2年半もかかった。
とても長かった。
苦痛の連続だった。
苦しかったなかでひとつだけ良かった点を挙げるとするならば
歯科大学病院での支払いは100万円もかからなかったということだ。
その半分以下の金額で済んだ。
分割などではなく
毎度行ったときにかかった費用分だけを支払うシステムだったので有難たかった。
授業の一環として
学生たちに囲まれて口の中を見られるのは恥ずかしかったが。
結果、全ての歯が均等に当たる様になって喋る活舌も少しはマシになったかな
とようやく終わったかのように思えたが、
次に僕を悩ませたのは
矯正後の後遺症だった。
矯正以前には感じなかった口のなかの違和感などを担当医の先生に訴え出た。
では他の科で診てもらいましょうということで
麻酔科、口腔内科、など様々な科で診てもらったが症状の改善は感じず
仕舞いにはカルテに自律神経失調症などと書かれる始末。
気にしすぎだと言われてるような感じがする。
確かに僕は神経質な方だ
けれど実際そういう感覚があるので納得することができない。
担当医の先生も僕の対処に困惑の色を浮かばせていた。
僕自身も理解されない苦しみに疲れ果てていた。
そしてあとはもうここぐらいしかないと紹介されたのが
「口腔環境科・・・」
科名を見ても一体どんな治療をするのか想像がつかない。
とりあえずカルテを受付に預け
向かいの横長のベンチに腰を降ろした。
正直期待値はゼロといっていい。
気持ちも暗ければ視界も暗く感じる。
そんな陰鬱な状態で僕は自分の名が呼ばれるのを待っていた。
隣の席を見ればおじいちゃんおばあちゃんと高齢者の顔ぶれが並んでいる。
なんだか歳の若い自分がここにいるのが場違いだ。
そういった科なのだろうか
最果ての地に行き着いたように思えてくる。
「○○さん。中へお入りください」
自分の名を呼ばれ席を立ち先導する女性の後について行く。
ほぼ白一色といった空間
真新しい内装が清潔感を感じさせる
それでも気持ちは重い。
突き当りの大きな診察室に通された。
開放的な室内
正面の大きな窓には外の景色が写し出されている。
リクライニングシートに腰かけ紙のエプロンをかけられた。
先生が来るまでお待ちくださいと案内役の女性は去っていく。
窓の向こうには今の気持ちとは対照的に
青い空が広がっている。
どこまでも広がって澄み渡っていて
あの青さに吸い込まれてしまいたいなと想いを巡らせていた。
しばらくして後ろの方から人が近づいて来るのが気配でわかった。
「○○さん初めまして。
○○さんの担当をさせていただきます深美と申します」
女神が舞い降りてきた・・
「漢方と癒しの女神」

女性の先生だ
それにけっこう若い。
この病院内で初めての女の先生・・・
「○○です、よろしくお願いします」
先生との挨拶もそこそこに先生は正面右手の机の椅子に腰掛け
上に置かれている資料を一覧しはじめた。
その後ろ姿におもわず釘付けになってしまう。
黒髪を後ろで一束にくくっているので
白いうなじがなんともいえない女性らしさを感じさせたからだ。
一読を終え椅子ごとこちらに向き直った先生は
この科の方針や治療内容の説明を語り始めた。
その内容に肩の力を抜いて耳を傾けていられたのは
先生の口調がおっとりしているからだ。
説明を聞いたうえで解釈すると
要は漢方薬で症状を改善していくということらしい。
漢方薬なんて一度も飲んだことがないのでそれで治るのかと半信半疑だ。
「では今から口の中の状態を確認していきますね」
と先生は口をマスクで覆った。
マスクをしたせいでなおさら奥ゆかしさが増している。
「あけてください」
先生の顔が近い・・
「べ~~」
視線を合わせないように上を見上げる
舌を出しているのがなんか恥ずかしい・・
「いいですよ 楽にしてください」
ドキドキした・・。
症状の説明を受けそれに適した漢方薬の説明も受ける。
試しに飲んでみましょうとお湯で溶かした漢方薬が入った紙コップを手渡される。
口のなかに入れた瞬間にじわ~
と広がる苦味と甘み。
思っていたほど飲みづらくはなかった。
しょうが湯のように体がぽかぽかして体の芯から温かさが広がっていく。
なんとなく口のなかの違和感が和らいでいるように感じた
漢方薬ってこんな感じなのか。
先生いわく漢方薬は薬ではないという。
即効性があるわけではなく飲み続けてじっくり体質を改善していく
といった感じらしい。
言われてみると確かにそんな感じに思えてくる。
とりあえず続けてみるか
とそう思えた。
先生の元でならやっていけそうな気がした。
「通院の目的は先生」
2ヶ月に1度のペースで病院に通い始めた。
一度に出して貰える漢方薬がそのぐらいでなくなるからだ。
薬を貰いに。
先生に会いに。
先生の見た目は僕的にはタイプだ。
くりっとした目をしていて丸い小顔で幼ない顔つきに見えるけど
白衣を着ているから威厳を感じさせて
頬に横並びにふたつ付いているホクロがとてもチャーミングなんだ。
「実はわたしも漢方薬飲んでいるんですよ」
「そうなんですか?」
先生からその言葉が出たのは血行についての話題の時だった。
「超がつく程の冷え症で」
確かに白肌だがそれは血行の悪さも関係してるのかな?
「周りの先生方からは万年冷え症女、だなんて呼ばれています」
ハハなんか可愛い妖怪みたいなネーミングだな。
その時の先生のはにかんだ笑顔はとても可愛いかった。
検診の合間のちょっとした雑談。
毎回ここへ来る度に先生の小さな情報をひとつ知ることができる。
実は年齢が僕と同い年だということも以前知って驚いた。
ひとつまたひとつと先生への親しみは近くなっていく。
「突然の別れ」

先生とはもうかれこれ3年ほどの付き合いになっていた。
その間他の漢方薬を試したりと調整を繰り返して
症状は日によって酷い時もあればあまり感じない時もあったけど
それでも漢方薬を飲んでいることで安心ができた。
救われていた。
先生の人柄に救われていた。
次に来るのは5月ぐらいか・・・
いつものように先生との診療を済ませ
受け付け前の横長のベンチで処理が終わるのを待っていた時だ。
先生がこっちに近づいて来るのが目に入った。
普段次回の予約やカルテの受け渡しなどはカウンター越しにやりとりをしているので
なんだろうか?
と思った。
「○○さん、」
と声を掛けられたので反射的に立ち上がる。
「実はわたし来月から別の大学病院に行くことになりまして」
ととつとつと話し始めた先生。
え、つまり今日でお別れってこと?、
最後ってこと?、
言ってる内容は理解できても気持ちが整理できない
いきなり過ぎて動揺してしまう
先生の表情にはどこか悲しいような申し訳ないようなものが見て取れて
僕は口ではまともに対応しているつもりだけれど
うまく笑顔がつくれている気がしない。
やっとのことで口に出せたのは、
「長いあいだお世話になりました」
だった。
あっさりとした物言いになってしまったのを後悔した。
寂しいですねえ
なんて冗談交じりにでも言えない自分が嫌いになった。
先生の顔をまともに見れずに見送れずに挨拶は終わった。
受付で先生がカルテを作成している間
気持ちを落ち着かせることに専念した。
受け渡しの時にまだチャンスはある、
その時にもう一度言葉をかけよう、
気持ち良く送り出そう。
先生に名前を呼ばれた。
これで先生に呼ばれるのは最後だ。
先生の口調はいつも通りの感じで次回の予約の日取りを告げていた。
先生とは次回は無いけど・・・
先生の手からカルテが手渡される
それがいかにも大事な物の様に僕は両手で受け取った
先生の顔を見つめもう一度
「お世話になりました。」
と伝えた
代わり映えのない言葉だったけど
今度は明るく言えたと思う
明るく送り出せたと思う
その証拠に先生の表情は
やわらかかった。
さようなら。
お元気で。
先生の代わりの担当になったのは若い男の先生だった。
対応はてきぱきとして人当たりも良かった。
けれどその後1年ぐらいで通院するのをやめた。
先生がいなくなったのとは関係はない
のかな。
kouhei著









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