心の距離

 

人と人の距離がこれほどまでに考えられる時代がかつてあっただろうか。新型コロナウイルス感染拡大の影響で、お互いがお互いのことを考える機会が増えるほど、どうやら心の距離が近づくわけではないようだ。片方の思いが強ければ強いほど、一方がその思いを受け止められるわけではないことを考えなければならない。

Aはこれまでの人生の中で、自ら進んで女性との心の距離を縮めたことはなかった。30代の終わりが見えてきた4月、新たな出会いを職場である県立中学校の職員室で迎えた。大学を卒業したばかりのBは家庭科の教師として、緊張しながらもそれを隠すように背筋を伸ばし、教頭から紹介を受ける中、大きな瞳でじっと前を見つめていた。Aは明らかに他の同僚とは違う印象をBに対して持っていた。恋をした。うすうすは自分で気づいていた。それを隠しながら働くことは暗い夜道を薄明かりの街灯をたどりながら歩くようなものだった。

日常の慌ただしさが落ち着いてきた夏のある日、職場の飲み会が終わり、BをAが家まで送ることになった。お酒を飲み、気を許したBが家の中にAを招いた。女性の部屋に入るのは初めてのことだった。このままなし崩し的に物事を動かそうと思ったが、勇気が出なかった。それ以来AはBを過剰に意識するようになる。

 

頭の中で常にBのことが思い浮かんでしまうAは、次第に自分のことをセーブできなくなる。過剰な声掛けは周りの職員からもあからさまで、噂が広がるまでそう長くはかからなかった。

「あなたのことは男性として見ることができません、申し訳ありませんが、会話も業務に関わるものだけにしていただけませんか。」

唐突にBから言われたことにAは初め、なにがなんだかわからなかった。目の前が真っ暗になった。次第に自らを拒否したBに対し、怒りを持つようになる。

 

Bへの好意を捨てきれず、それを受け取って貰えなかったやるせなさから、Aの生活はひどく荒んでいった。周りの全ての人が敵に見える。子どもと関わるときにも笑顔はなくなっていった。「なんとか本当の気持ちを聞かせてほしい。」AはBに何度も何度も連絡をとった。それは深夜にも及んだ。当然返答がくることはない。やり場のない怒りは、ついに自分に向くようになる。初めは壁叩いた。それも力いっぱい、何度も何度も。体の痛みが自分を現実から逃れさせてくれた。それでも落ち着かないときは、心療内科でもらった薬を飲む。効かなければ量を増やす。次第に、意識が途絶える。そんな毎日を過ごしていた。

目が覚めた。見知らぬ真っ白な天井、白衣を来た男性が「調子はいかがですか。」と訪ねてくる。すぐに状況は理解した。「死ねなかった。」Aはそう呟いた。面会にくるのは両親だけだ。病棟の2階から見えるいきいきとした緑色の芝生が嫌味みたいに思えた。

 

「だいぶ表情が柔らかくなりましたね。」そう言って、笑顔でCが微笑みかけてきた。Aの病室を担当するCは20代半ばで、これからの未来に期待を馳せた初々しい表情と、真剣なときの頼もしい表情が印象的な女性だ。Aは自然とCを目で追う自分に気づいた。もうつらい思いをするのは嫌だ。心では何度も何度もそう思い、自分の思いに蓋をしようした。心は閉じていても、身体は素直に反応してしまう。Cを思うと呼吸が早くなり、自然と表情も和らいだ。ふと、半年前の自分を思い返してみる。ここまでつらい思いをしたはずなのに、あの当時の自分が輝いて見えた。「もう一度他人に期待してみてもいいかもしれない。」彼はそう思い始めると、おもむろにスマートフォンを取り出し、Cに「連絡先を教えてくれませんか。」問いかけた。病棟の休憩室ではすでに、噂が広がり始めている。

o505著

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コメント

コメント一覧 (2件)

  • 今回は、人との距離感と恋愛についてのお話を書いていただきました。

    今まで女性に進んで心の距離を縮めたことのないまま30代を終えようとしていたAは、新任のBに恋をしました。
    慌ただしい日常がひと段落し、職場の飲み会でBを家まで送ることになったA。お酒の力もあって気を許していたBに家の中に招かれ、過剰にBを意識するようになりました。
    その行動は周りが見てもあからさまで、唐突にBから拒否されたときは目の前が真っ暗になりBに対して怒りを覚えるほど。
    やるせない気持ちで生活も荒み、増えていく病院の処方薬で意識を飛ばす毎日。
    ある日、目覚めたのは病院のベッドの上。「死ねなかった」と呟く彼を見舞うのは家族だけでした。
    そんな辛い毎日を世話してくれたのは、20代半ばのCという看護師。
    もう一度他人に期待してみたいと思ったAはCに連絡先を聞き、またもその噂は広がっていきました。

    人との距離感は、近すぎると一方的になり良くないことが記されています。
    コロナ禍で多くの人が他人との距離感のとり方を改める必要があった時期にあり、読者はこの作品から心の距離感のバランスについて学び考えさせられるでしょう。
    とても読みやすく良い作品です。

    検収者 kitsuneko22

    ㉕kitsuneko22-10

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