タイミング

タンクトップ姿のマキトは、ベランダで煙草を吸っている。
昔はときめいていたこの後ろ姿も、今ではすっかり見慣れてしまった。
交際5年目になる頃には、
周りの友人たちはどんどん結婚していく一方で私たちの関係はマンネリに。
2年前に同棲を始めた時はすぐにプロポーズされるだろうと思っていたが、
いつまで経っても彼からそんな気配は微塵も感じられない。
結婚するタイミングを完全に見失っていた。
今更新しい恋をする勇気もなく、だらだらと日々は過ぎていった。
新しい風

まっさらなスーツを着たフレッシュな新人社員たちの歓迎で社内が賑わう中、
私は去年の入社式を思い出す。
初出勤を終えたあの日、マキトは焼肉屋に連れて行ってくれて
「たくさん食べてバリバリ働けよ」と、くしゃっとした笑顔で背中を押してくれた。
ーあれからもう1年経ったなんて…。
営業課に配属されてから毎日忙しく働いて仕事は充実していたが、
プライベートは相変わらずだった私は無意識に男性の新人社員たちを見ていた。
自分のタイプはいないなぁと心の中でため息をついて、
会社で新しい出会いを求めてどうすんだと、一人でつっこむ。
オフィスに設置されているコーヒーマシンでカプチーノを注ぎ、
毎朝のルーティーンであるメールチェックを始めたのだった。
飲み会

お酒に酔った一人のベテラン社員が騒いでいる様子を見て、げんなりしていた。
ー今日は新入社員の歓迎会なのに、あんたがでしゃばってどうすんのよ。
イライラとしていた感情は、どうやら顔に出ていたらしい。
そこに「お隣、失礼します」とビール片手に一人の男性社員が座り、
私の空いたグラスを見てドリンクを注文してくれた。
隣にきたこの新人くんに何を話そうかと悩んでいると「楽しんでますか?」と、
先手を打たれて驚いた私は首を縦に3回も振って引きつった笑顔を見せる。
ー新入社員に心配されるとか…。情けないぞ自分…。
冷えたハイボールをぐいっと飲んで、心を落ち着かせてから先輩らしく振舞うのであった。
会社帰りに

時刻は22時になり社内のパソコンは強制シャットダウンされた。
会社を出てマキトにメッセージを送ろうとしていると、
後ろから名前を呼ばれ振り返った先にはジャージ姿の男性が。
「お疲れ様っす、4課の津田です」
声をかけてきたのは、先日の歓迎会で隣に座ってきたあの新人くんだった。
しかしなぜこんな場所で、ジャージ姿なのか。
この時もまた、私は顔に出ていたらしく
「先輩分かりやすくておもしろいっすね。家が近くなんすよ」と、からかわれた。
この人懐っこい津田くんを見て、家に帰ったってマキトは夜勤でいないし、
たまには飲んで帰ろうかなとふと思い、柄にもなく飲みに誘ったのだった。
何気ないひとこと

華金のせいもあって、お酒を飲むスピードは早くなり自然と愚痴も増えていく。
最近の不満は仕事ではなく、マキトのことだ。
いつまでマンネリした状況を続ける気なのか、
そもそも結婚する気なんてないんじゃないのと、
一方的にしゃべり続ける私を、津田くんは静かに頷いて聞いてくれていた。
我慢して溜め込んできた感情の鍵が外れ、今にも泣いてしまいそうになったとき
「はい、もうストップ。後輩の僕に涙なんか見せないでくださいよ」と
温かいお手拭きを頬にあてられハッとする。
ーまた心配されちゃった…。ダメだな、私。
一気に黙り込む様子を見て、鼻で笑った津田くんに「なにがおかしいの」と睨みつける。
「なんというか、自分が変わればいいんじゃないっすか?」
生意気な後輩だなと思いつつも、その言葉が自分の中で響いたのは確かだった。
分かれ道

家の掃除をしていたマキトは「楽しんできてね」と、笑顔でこちらに手を振る。
女友達と映画を見に行くと伝えてあるが、嘘だ。
今日会う相手は、津田くんだ。
彼には恋心を抱くというよりも年齢がひとつしか違わなかったので、
後輩でありながら仲の良い男友達のように思い、私はよく遊びに誘うようになっていた。
ではなぜマキトに本当のことを言わなかったのか。
それは彼を友達と思っているけれど、二人で遊ぶことに少し後ろめたい気持ちがあったからだ。
ずっと見たかった話題の映画を見終え、
近くのファーストフード店で夜食をとっている津田くんは不機嫌だった。
「もう一年になりますよ。そろそろ決めた方がいいんじゃないっすか」
ハンバーガーを頬張る私はドキッとする。
「いつまで彼氏さんのとこにいるつもりなんすか?」
過去の選択と未来

婚姻届けを役所に提出して、車に戻るとお腹をポンと蹴られる。
あの映画を見に行った日に安易な考えで津田くんの家に遊びに行き、
そこで小さな命を授かってしまっていた。
文句を言いつつもずっと付き合ってきたマキトの事は大事に思っていたので
取り返しのつかないことをしてしまったと後悔したが、彼はそんな私を咎めなかった。
「絶対幸せになれよ」
落ち着いた顔をしてベランダでいつものようにタバコを吸い始める。
その表情から彼の考えは読み取れない。
別れを告げたあの晩、今日でこの見慣れた姿が最後なのだと実感すると
寂しさがこみ上げ、それと同時に安堵していた。
もう彼からのプロポーズを待たなくていいのだと。
「津田さーん、印鑑お忘れでしたよ」
役所の職員が車の窓を軽くたたく。
ありがとうございますとお礼を述べて、運転席の夫を見る。
「これからは私たち家族だね」
陽の光で明るく照らされた車内で、照れくさそうに笑って見つめあった。
o104著









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